03若狭・久米周辺の旧跡
①波上宮
②戦没学童慰霊の塔
③記念館
④天妃宮跡
⑤那覇市・福州市友好都市交流シンボル像
⑥波之上 護国寺
⑦ベッテルハイム博士居住之跡・仲地紀仁顕彰碑
波上宮

この地は古来より「ニライカナイ」への祈りの聖地でありました。諸外国との交易基地であった那覇港の出入りの船は、その都度、波上宮の鎮座する高い崖と神殿を望み、航路の安全を祈り、感謝をささげたといいます。
人々は大漁と五穀豊穣を祈念し、毎年正月には国王自ら列を整えて参拝し、国家の平安と繁栄を祈るなど、崇敬を集めました。
波上宮は、琉球八社の第一位であり、「当国第一の神社」と崇敬された。明治23年には官幣小社に列格、沖縄総鎮守としてふさわしい社殿、神域となりましたが、先の大戦で被災・焼失しました。
戦後、昭和28年にご本殿と社務所が、昭和36年には拝殿が再建されました。平成5年
平成のご造営により、ご本殿以下諸社殿が竣工。平成18年那覇市史跡文化財に指定されました。
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戦没学童慰霊の塔(小桜の塔)

1944(昭和19)年8月22日、沖縄からの疎開学童約800人を乗せた日本の貨物船「対馬丸」が、長崎に向かう最中に、アメリカの潜水艦「ボーフィン号」の魚雷3発によって撃沈された。
当時、対馬丸には「学童を含め約1800人が乗っていた」とされていますが、そのうち生存者はわずか280人程度、うち学童疎開者は60人ほどでした。
戦没学童慰霊の塔(小桜の塔)は、対馬丸遭難学童遺族会によって、昭和28年5月5日建立(昭和34年6月9日移設)された。
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記念館

1997年(平成9年)12月科学技術庁 海洋技術センターによって海底に横たわる“対馬丸”が発見された。遺族は遺骨収集と船体引き上げを政府に要請したが、引き上げは不可能との回答を受けた。
その結果、船体引き上げに変わる“遺族慰謝事業”として全額国庫補助による「対馬丸記念館」を建設。撃沈から60年後の2004年(平成16年)8月22日に開館した。
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天妃宮跡

「天妃」とは航海安全の守護神「媽祖」の事。10世紀後半、中国福建省に“媽祖”と崇められていた女性がいました。その死後いつしか航海の安全を守ってくれる神として、中国南部の沿岸地方で広く信じられるようになり、明の皇帝は媽祖に「天妃」という称号を与えた。
沖縄には14世紀の終わりごろやって来たと云われる久米36姓と共に、天妃を祀る信仰も伝わってきたそうです。
天妃には上天妃宮と下天妃の二つがありましたが、現在残っているのは、上天妃宮の石門だけです。石門の石垣は布積みからあいかた積みが用いられています。
那覇市・福州市友好都市交流シンボル像

この像は那覇市と中国福州市が昭和56年友好都市締結から平成23年で30周年を迎え、今後の有効・交流を記念して建設されました。像の高さは阿形・吽形ともに高さは15m、幅は3mで材料は花崗岩(中国福建省産)を使用しています。
沖縄県のクルーズ船着岸ターミナルの方向を向いており、クルーズ船から到着する観光客をお迎えしています。
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波之上 護国寺
護国寺は、高野山真言宗の寺院。山号は波上山、院号は三光寺。本尊は聖観世音菩薩。琉球の真言宗総本山であり、現存する沖縄の寺院では、最も古い寺院である。創建以来、波上宮の神宮寺で、琉球国王の勅願時でもあった。
境内には、ベッテルハイム博士居住之跡・仲地紀仁顕彰碑が立っている。
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ベッテルハイム博士居住之跡・仲地紀仁顕彰碑

ベッテルハイムはハンガリー生まれのイギリス人。キリスト教布教活動のため1846年琉球に到着するが、キリスト教は禁止されており、王府から厳しい監視下に置かれ、8年間護国寺で身柄は軟禁状態であった。
医師でもあったベッテルハイムは治療の名目でひそかに布教活動を行なっていた。住民から「ナンミンヌガンチョー(波之上の眼鏡)」と呼ばれていた。
仲地紀仁は日本で初めて牛痘を用いた天然痘予防接種を行った医師で、西洋医学を理解しその恩恵を広め、最終的には国王の従医まで上り詰めた人です。
当時、高い致死率と強い感染力をもった病の天然痘が蔓延していたが、有効な治療方法もなく、医師たちも悩んでいました。
仲地紀仁はベッテルハイムが牛痘接種法を知っているとの情報をつかみ、ベッテルハイムに会いに行きました。当時は西洋医術が禁止されていたため海岸の洞窟で密かに牛痘接種法学び、雄牛の腫瘍からワクチンを作り1848年島民の子供に接種し成功させました。以後琉球の天然痘対策は劇的に進歩した。
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