泊周辺の歴史散歩

02【とまり歴史散歩】泊周辺の旧跡

むかし沖縄本島には三つの国があり覇権を争っていた三山時代、中部地域に勢力があり、浦添に本拠地があった中山王の英祖王は、13世紀半ば頃に泊に対外交易のための施設だった公館(泊御殿)と公倉(大島倉)を置いたことからみなとまちとして栄えていました。
1429年、三山を統一した尚巴志王(ショウハシ)は首里に都を置き、那覇・泊を港として整備し、対外交易の拠点としてさらに栄えました。15世紀の半ばに泊地頭が置かれ、泊と硫黄鳥島を管轄。1906年薩摩侵攻以降も貿易、商業の中心地として発展しました。

琉球王国の中心だった首里と陸続きの泊港は、安里川の河口に位置し、陸路・水路共に交通の便が良く、13 ~ 14世紀にかけて宮古・八重山・奄美の船も出入りし、賑わいのある港でした。
当時、泊には、各諸島の事務を取り扱う「泊御殿(トゥマイウドゥン)」や、貢物を収納する「大島倉(おおしまくら)」が置かれていましたが、海外交易の発展にともなって、那覇港が王国の表玄関として整備され、泊港の機能も那覇に移りました。

 19世紀以降、イギリス・フランス・アメリカ・ロシア等、欧米諸国の艦船が来航するように なると、王府は薩摩藩の主要施設が集中する那覇に入港させず、泊港沖を投錨地としました。これにより泊港は外国人の上陸地となりました。
現在、泊港付近には、フランス人宣教師の滞在跡地、外人墓地、ペリー提督上陸地など欧米諸国との交流を示す史跡が残っています。

  • ①聖現寺

  • ②天久宮

  • ③ユヤギウタキ

  • ④泊外人墓地

  • ⑤ペリー提督上陸記念碑

  • ⑥黄金ウタキ・オシアゲ森

  • ⑦松茂良興作の顕彰碑

  • ⑧泊いゆまち

  • ⑨琉歌碑

  • ⑩泊竜宮神

  • ⑪琉球音楽聲工工四碑

  • ⑫バジルホール来琉記念碑

  • ⑬与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑

  • ⑭泊大阿母火神

  • ⑮泊村学校所跡

  • ⑯崇元寺

  • ⑰長虹堤

聖現寺(せいげんじ)

聖現寺

天久山聖現寺は15世紀に創建されたお寺で、本尊は聖観音。初めは禅宗でしたが後に真言宗になりました。民から天久の寺と呼ばれていました。
王府時代の末頃は異国船がやってくると、外国人の宿泊所になったりもしました。


那覇市上之屋392番地
泊ふ頭地下駐車場から徒歩7分

天久宮(あめくぐう)

天久宮

琉球八社の一つで、熊野権現をお祭りしています。以前は聖現寺の北にありましたが、1734年聖現寺の中に移されましたが1737年本殿が老朽化して壊れしまい、2年後には拝殿も無くなってしまったそうです。
沖縄戦でも荒らされましたが、1972年再建されました。琉球八社とは、明治以前琉球国府から特別の扱いを受けた八つの官社の事です。
『波上宮・沖宮・識名宮・普天間宮・末吉宮・八幡宮・天久宮・金武宮』


那覇市泊3丁目19番3号(住所は泊ですが聖現寺の隣です)
泊ふ頭地下駐車場から徒歩7分

ユヤギウタキ

ユヤギウタキ

もとは聖現寺の南隅にあったデイゴの木の下の“ほこら”におまつりされていました。
海難防止の神様で、四季の拝みには村人が参拝していたそうです。


那覇市泊3丁目19番3号(天久宮の階段を下りる)
泊ふ頭地下駐車場から徒歩7分

泊外人墓地

泊外人墓地

泊港北岸出口向かいに『泊外人墓地』があります。かつては「ウランダ墓」と呼ばれ、布教や交易で琉球を訪れ、亡くなった外国人が眠る墓地です。
1718年に埋葬された中国人を始めに、アメリカ人・イギリス人・フランス人・スウェーデン人など22人のお墓が古いそうです。
また、ここには1953年に初めてペリー提督が上陸した場所でもあり、上陸記念碑があります


那覇市泊3丁目1番
泊ふ頭地下駐車場から徒歩5分

ペリー提督上陸記念碑

ペリー提督上陸記念碑

ペリー提督は上海経由で那覇市“泊”に到着した。1853年5月26日のことです。
記念碑の裏側には英文で「琉球人の繁栄を祈り、琉球人とアメリカ人とが常に友人たらんことを望む」とあります。ペリーは武力を背景に王府の許可を得ずに強引に首里城を訪問するなどしました。その後、小笠原諸島を経て7月8日浦賀に上陸。この黒船来航は日本史上の大事件となりました。


那覇市泊3丁目1番(泊外人墓地内)
泊ふ頭地下駐車場から徒歩5分

黄金ウタキ・オシアゲ森

黄金ウタキ・オシアゲ森

この周辺は、昔から新屋敷と呼ばれていました。黄金(くがね)ウタキはこの小公 園にあった御嶽で、悪い病気から村の人々を守るって言われてきました。
オシアゲ森の方は『琉球国由来記』(1713年)に出てくる御嶽で、尚徳王が喜界島征伐から凱旋した時(1466年)泊の泊宗重の妻が、真水を捧げながら(足を洗った)お迎えした場所。
尚徳王はこれに感動し、泊宗重を泊地頭に妻を泊大阿母(ノロ=神官)に任命した。もとは泊高橋の近くだったそうです。


那覇市泊3丁目12番5号(新屋敷公園内)
泊ふ頭地下駐車場から徒歩5分

松茂良興作の顕彰碑

松茂良興作の顕彰碑

松茂良興作(まつもら こうさく)は泊手(空手)中興の祖として歴史に名を刻んだ。
泊の士族として生まれた松茂良は、義侠心が強く住民を守り続け、泊の歴史と文化の中で尊敬される人物の一人です。


那覇市泊3丁目12番5号(新屋敷公園内)
泊ふ頭地下駐車場から徒歩5分

泊いゆまち

泊いゆまち

沖縄県那覇市の泊漁港内にある「泊いゆまち」ではその日水揚げされた新鮮な魚介類を複数の鮮魚店が販売しています。
「いゆ」とは沖縄の方言で“魚”のことで、「まち」は“市場”の意味です。施設内の卸業者は24店舗。沖縄らしいカラフルな魚が豊富で、全国発送も可能な店舗もあります。また、奥にはガラス張りの解体室があり、時間が合えばマグロなどの解体の様子を見ることができます。
お昼を過ぎると商品が少なくなり、売り切れごめんで閉店する店もありますので、朝早くご来店いただくのがベストです!


那覇市港町1丁目1番18号
泊ふ頭地下駐車場から徒歩7分

【琉歌碑】吉濱照訓氏 寄贈

琉歌碑

「泊高橋に なんじゃじふぁ落とち いちか夜ぬ明きて とめてさすら」

歌意:泊高橋から大切な銀のかんざしを落としてしまった。いつか夜が明けて探し出し、 再び髪に差すことができるものだろうか

昔の泊高橋は、月見の名所だったそうで、そこで恋人と語り合っていた娘が誤って銀 のかんざしを落としてしまったのを、恋人が慰めるために詠んだ・・・と云うのが通説ですが、平敷屋朝敏が国相蔡温の施政を批判して安謝の浜で処刑され、その子供が宮古島に流刑された際に、朝敏の妻が詠んだという説もあるそうです。
“夫や子供、名誉まで失った、時代が変われば名誉が回復されるのだろうか”と深い悲しみが伝わってきます。

寄贈者として名前が刻印されている吉濱照訓氏(よしはまてるくに)は、警察官を経て 県内初のパチンコ業を営んだ人。永く那覇爬龍船振興会会長に就き、1928年以降中断し ていた那覇ハーリーを復活させた立役者です。2010年1月に死去。享年102歳


那覇市泊3丁目1-2(泊高橋横)
泊ふ頭地下駐車場から徒歩3分

泊竜宮神

泊竜宮神

竜宮神が祀られているところに港があると漠然と思っていましたが、地元の人の話では「人は水がないと生きていけないので、昔の人は水が湧くところに村を造った。
村人たちは水が湧く場所に感謝して、祈りを奉げた。水は川となって海に流れていく。沖縄の人は川を蛇と見立てて神聖なものとし、そして河口を蛇の頭と見立てて竜宮神を祀ったのです。」

沖縄での竜宮の拝所とは、人間の力ではどうすることもできないけれど、生きるために必要な事について、海の向こう、もしくは奥底の、よくわからない世界の大きな力に向けて、祈りをする場所なのだと思います。県内ではこの竜宮神の石碑は多く見られます。


那覇市泊3丁目1-2(泊高橋横 琉歌碑のとなり)
泊ふ頭地下駐車場から徒歩3分

琉球音楽聲工工四碑

琉球音楽聲工工四碑

「絃楽譜のみだった工工四(くんくんしー)に聲楽譜を附けて完成させた。
「聲楽譜工工四」は今や琉球三絃楽を学ぶ者、とりわけ野村流者にとっての最善な教本となり得たのである」と石碑にあります。(工工四=くんくんしーと読む=三味線の楽譜)
平成23年8月28日 建立 「琉球音楽聲楽譜附工工四発祥の地期成会」


那覇市泊3丁目25-1(とまり緑地内)
施設緑地内です

バジルホール来琉記念碑

バジルホール来琉記念碑

19世紀初頭、琉球に訪れたイギリス海軍の大佐。来琉の目的は琉球の調査や測量で、滞在中に琉球人と交流したエピソード等を記録した『朝鮮・琉球航海記』が、ヨーロッパでベストセラーになりました。
また、イギリスへの帰国途中にセントヘレナ島で幽閉中のナポレオンに面会し武器を持たない琉球という国があると報告し驚かせたという逸話があります。

バジルホールは本の中で「琉球の人々は著しく文明化している。 人々は無欲で、完全に満足しているように見える。」と記し、琉球を理想郷のように紹介しています。この本などの影響で、ヨーロッパの人々の琉球への関心が高まりました。
平成28年12月16日 建立 「バジルホール記念碑建立期成会」


那覇市泊3丁目25-1(とまり緑地内)
施設緑地内です

与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑(よなはせどとみおや逗留旧跡碑)

1390年宮古の豪族で初めて首里の中山王に朝貢しました。それにより宮古の首長に任ぜられ、泊に住まいを構えた場所です。しかし言葉が(方言)が通じず、部下20人を選び3年かけて学ばせました。国王への貢物は彼らを通して納めました。
宮古に帰るときには王宮内で送別の宴を賜ったといわれています。

石碑には「その後、屋敷跡は人手に渡たり、与那覇の子孫がこの地を買い求めて記念碑 を建て礼拝の場所にするため、白川氏正党14世恵政(けいせい)が上告の時、1767年この碑を建てた」と記されています。碑は沖縄戦で上半分は破壊されたましたが、与那覇勢頭豊見奉賛会の協力により、那覇市教育委員会1987年1987年10月に再建しました。


那覇市上之屋201 付近(タカマサイ公園内)
泊ふ頭地下駐車場から徒歩10分

泊大阿母火神(とまりおおあむひぬかん)

泊大阿母火神

1466年、尚徳王が喜界島から凱旋した時、泊宗重の妻が真水を捧げてお迎えしました。
これに感動した王は、泊宗重を泊地頭、妻を泊大阿母に任命し、その泊大阿母がおまつりしたのが、この火神です。元は、泊交差点の辺りにありました。毎年、四季に拝まれています。


那覇市泊1-38 付近 (泊北公園内)
泊ふ頭地下駐車場から徒歩10分

泊村学校所跡(とまりむら学校所跡)

1835年に作られた学校所。(教倫館)学校として利用されただけでなく、泊村の行政もここで行われました。
廃藩置県の時(1879年)在校生は155人いたそうで、1881年には教倫小学校になり、その後泊小学校に名を改めました。


那覇市泊2-23-9
泊ふ頭地下駐車場から徒歩10分

崇元寺(そうげんじ)

崇元寺

霊徳山崇元寺(そうげんじ)は、臨済宗の寺で、1527年に創建されたとされています。
崇元寺は、伝説の舜天王以来の歴代国王をおまつりする国廟で、新しい王様を冊封する儀式の前に必ず冊封使が参拝した寺院です。一応臨済宗のお寺でありますが、主役は仏様でなく無くなられた国王でした。
沖縄戦により焼失したが、三連アーチ型の石門が現在でも残っており重要文化財に指定されています。昭和30年代頃までは宗元寺跡に木造で図書館が造られ、多くの人々が利用していました。しかし、その後図書館も取壊され門だけが残こり、現在は公園として整備されています。 崇元寺に向かって右端に『崇元寺下馬碑』があります。馬に乗ってやって来た人すべて、この碑の手前で降りて、敬意を表わさなくてはならなかったのです。
かつては石門の左右に建てられていましたが、西側の下馬碑は去った大戦で破壊されてしまいました。


那覇市港町1丁目9
泊ふ頭地下駐車場から徒歩10分

長虹堤(ちょうこうてい)

長虹堤

長虹堤は、首里・那覇の往来の便のため、1451年に築造された那覇と安里を結ぶ約1kmの浮道(海中道路)です。
那覇は海に浮かぶ「浮島」であったため、長虹堤築造以前、中国皇帝の使者冊封使来琉の際には、那覇から安里まで小船を並べて橋にしたといいます。1451年国王尚金福は、国相懐機(かいき)に命じて、那覇・安里を結ぶ道を造らせました。懐機は、この工事は海が深く波が高いので、神の御加護が必要だと、祭壇を設け二夜三昼祈願しました。その結果、水が引き海底が現れたので、人民を動員し、崇元寺橋からイべガマ(久茂地のチンマーサー)に至るまで石橋七座を設け、浮道を完成させたといわれています。

1633年来琉の冊封使杜三策の従客胡靖は、この浮道を「遠望すれば長虹のごとし」とうたい、それ以降「長虹堤」と称されました。
長虹堤は1451年以降、明治期まで首里・那覇を結ぶ主要道でありましたが、1914年首里・那覇間を走る電車の開通(1933年廃止)や、1934年新県道(現国際通り)の開通により、主要道としての地位は低下しました。さらに沖縄戦や戦後の都市開発により、現在ではかっての様子を知ることは出来ませんが、わずかに長虹堤跡の道が残されています。


那覇市牧志2丁目20番(ファミリーマートから沖映通りに向かう道)
泊ふ頭地下駐車場から徒歩10分